スーツは着てても心はギーク。またはスーツとギーク話のモデルについて。

by tanabe on December 28, 2007

スーツもギークも仮にもソフトウェアをつくる人なのであれば、もう少し言葉の意味に敏感である必要があるんじゃない?

スーツとギークが云々っていうときは、主に議論は二つの別の話をしている。そして、どっちの話をしているかがわかれば、議論の先は見えることが多い。

一つは、ロールの話。スーツという役割とギークという役割があって、それぞれが協調してソフトウェアに関与しますよ。って文脈で使われるケースだ。

この場合、お互いのロールに対して何を言っても、自分の狭量さか無知をさらすだけ。必要な役割があって、それぞれ違う立場から働きかけているだけなんだから、そこは「問題vsわたしたち」の形にする力量があるかどうかという問題があるだけ。何を主張しようと力不足をアピールするだけになっちゃう。ロールなんだから、一人の人が両方のロールを果たすことは当然あるし、実はどちらの役割も果たせてない人だってきっといる。

もう一つが、価値判断を含んだレッテルの話。あいつは忌々しいスーツで、ぼくらは賢くすばらしいギークたちという構図から議論がスタートしているケースだ。

これはもう何を言っても仕方なくて、そもそも話は虐げられた、あるいは正当な理解は得られない「ぼくら」(別にギークかどうかは本質じゃなくて、どこにでもある話しだよね)というところからスタートしているんだから、議論の余地はない。本当に何かを伝えようと思ったら、議論をしたって意味はない。「それでギークたるあなたの主張は何?話のゴールは何にしたいの?」と突き詰めて、本当は何を聞いてほしいのかはっきりさせるしかない。

あとは、日本のSIer商売に多く見られる重たく付加価値の少ない仕事の仕方がどうこうという議論がトッピングで混ざってたり、レッテルとしてのスーツが営業もマーケもプロマネも何もかもを含んだボク以外でしかなくて単に世間が狭いだけじゃないと感じることが多かったり、あまり建設的とは思えない。

ぼく個人は Dave Thomas や Kent Beck のように(ロールとしての)スーツは着てても心はギークで。(DRY 的な意味で。)