梅田さんとある編集者さんという異業種のお二方が共に絶賛していたため、ずっと気になっていた一冊。一日でむさぼり読んでしまったので、感想など書いてみる。
近年の最高傑作。
その精緻な筆力にぐいぐいと惹き込まれた。
痛烈にスリリングでエキサイティング。
十二分にエンターテイメントとして成り立つ要素を備えながら、あくまで知的で重厚な内容。
それでいて絶妙に読みやすい文章のバランス。
最初から最後まですべての文章が構想されてから書かれたのではないかと思う(実際にそうかもしれない)圧倒的な統一感。
真実の是非はともかく、日本の外交にこういう思想を持った人物が居たということはぜひとも知っておくべきだと思う。
佐藤優氏の「国家の罠」は、他の本を中断してでも読むべき本だ。
鈴木宗男議員の逮捕に絡め、前後の対露外交、北方領土問題、そして外務省の外交スタンスなどを語る前半部、
そして、この本の醍醐味とも言える検察との詳細なやりとりの記録となる後半。
一貫して語られる佐藤の情報収集・分析者としての職業観。
そのすべてが鮮烈な印象を与える。
新潮社 (2005/03/26)
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以下、ネタバレ(と感じるかもしれないこと)を含みます。
ただ、気をつけなければいけないなと感じるのは、「国益に殉じた国士」という佐藤氏の印象はあくまで「国家の罠」というノンフィクション小説の主人公・”佐藤優”に対して抱いたものだという点だ。
この意味では、この本に書かれていることは真実だろうし、”佐藤優”は紛れもない愛国者なのだろう。
一方で、この本の著者である佐藤優氏については、この本の言い分をそのまま受け取ってしまうのは、情報屋である佐藤氏へ失礼とも思える。
実際、彼の現在の立場は控訴中というものだ。書中で佐藤氏自身が述べている「ヒュミントの原則」から言っても彼の言はそのまま信じるべきではない。
情報の世界で、ヒュミント(人間からとる情報)の原則は二つである。第一は、情報源がこちら側が関心をもつ情報を知ることができる立場にいるということだ。そして第二に、情報源が自分の得た情報を私に正確に教えてくれるということだ。(p19)
佐藤氏は情報を正確に教えることを読者に保証する立場にいない。
私には残念ながらこの書の内容を逐一裏付けをとれるようなパイプはないのだが、最低限論理的な思考により真実を求めるのは、最高に面白い小説を提供してくれた著者に対する礼儀のような気がしている。
いくつか読後に気にかかった点を。
佐藤氏が国益を最重要視したという印象は避けられないように書かれているのだが、その国益の基準となる思想についてはほとんど語られることがなかった。
たんに本の主旨から外れるということや、ページ数の制限という問題は明らかにあったと思う。それでもあまりにこの件に関する具体的言及は少ない。
意地悪い見方をすれば、国益へ殉じたという点を強調しておけば、とにかく日本のためにがんばった人。という印象だけを植え付けることができる。
本当に大切なのは、なにがどう国益となるのか?という佐藤氏(を含む当時の外務省)のヴィジョンであったと思う。これが本来、国益と呼ぶべきものでなければ、それはやはり”背任”だろう。(書中での背任とは意味が異なる。そして逮捕されるべきでもないだろう。)
どうも国益というきれいな響きを使って、うまいこと本全体を通しての正義をコントロールしているな、というのは正直な印象として受けた。
これが佐藤氏流のレトリックなのかもしれない。という疑念と言ってもいい。
レトリックに関する佐藤氏の説明を引用しておこう。
同じことでも言い方によって相手側の受け止めは大きく異なる。例えば、「お前、嘘つくなよ」と言えば誰もがカチンとくるが、「お互いに正直にやろう」と言えば、別に嫌な感じはしない。伝えたい内容は同じである。(p175)
そしてもう一つ、検察や公判の結果が世論に引っ張られる傾向があるという本書の指摘は興味深い。
国策捜査の適用基準のハードルが近年下がってきているという話に続いて、このように述べられていた。
「そうだろうか。あなたたち(検察)が恣意的に適用基準を下げて事件を作り出しているのではないだろうか」
「そうじゃない。実のところ、僕たちは適用基準を決められない。時々の一般国民の基準で適用基準は決めなくてはならない。僕たちは、法律専門家であっても、感覚は一般国民の正義と同じで、その基準で対処しなくてはならない。(後略)
この理屈に従えば、世論に佐藤はシロだという声が強くなれば、検察も司法も強いて佐藤氏を有罪にするべき理由がなくなってしまう。(少なくとも国策捜査としては。面子云々は残るだろうが、それは末節の論理だ。)
そして、この「国家の罠」を読むことによって醸成される気持ちは、まさに「佐藤はシロだ」なのである。
彼は国益のために奔走した愛国者であり、情報収集・分析のプロフェッショナルとしての職業倫理をもった男である。そんな彼が多少、イレギュラーな操作はあったかもしれない(なかったかもしれない)が、いずれにせよ私腹を肥やすための犯罪に手を染めるはずがない。
いったい誰が愛すべき”佐藤”を憎むことができるというのだろう?これが本書の読後に多くの読者が得られる偽らざる感想なのだ。
控訴中の佐藤氏にとってこの本は、公判へ向けての一つの有効な戦術であるというのは穿ちすぎた考えだろうか。
上記の二つの見方は単なる可能性であり、あえて意地悪に想定したものだ。別にこの見方が正しい!などと言い張るつもりはまったくない。
ただ、確実に言えるのはこの本の中の佐藤氏はきれいすぎるということだ。
たしかに、彼の思想としては書中の言の通りなのかもしれない。(これがすべて口からでまかせなら、むしろ歓迎すべき大作家だ。)
しかし、実際の彼の仕事はここまできれいに意思を統一してできたものだったのだろうか?
そうは思えない。それだけで通用するような世界に佐藤氏が生きていたのであれば、三井物産は正攻法のみで押してきただろう。
あまりにきれいで、しかも全体にそれが整いすぎている。情報の質として言えない話が多くあるというのはわかる。
ただ、それにしても佐藤氏自身に関する汚い話(やむをえないものも含め)があまりになさすぎる。
これは鵜呑みにはできないな、というのが心証なのである。
プロフェッショナルな職人は、自分の仕事については正直なものだ。悪いことも端的に伝える。少なくとも技術畑の職人はこれがモラルだ。
その意味で、この最高のエンターテイメントと魅力的な主人公・”佐藤優”と現実の世界に生きる生身の佐藤優氏を混同するのは、注意した方がいい。
(これは佐藤氏の語る外務省のロジックや検察のロジックについても言える。一つの見方を伝えてはいるだろう。ただ、すべてではないと思う。この辺り、今後詳しく知っていそうな知人に別の側面を聞いてみたい)