かなり遅まきながら、Blog論について書いてみた。かなり荒いのだけど、話として早いうちに出した方が良いと思うので出力してみる。
前提としての議論は、この辺りを読んで頂ければと思う。
My Life Between Silicon Valley and Japan - Blog論2005年バージョン(1)
My Life Between Silicon Valley and Japan - Blog論2005年バージョン(2)
My Life Between Silicon Valley and Japan - Blog論2005年バージョン(3)
My Life Between Silicon Valley and Japan - Blog論2005年バージョン(4)
My Life Between Silicon Valley and Japan - Blog論2005年バージョン(5)
My Life Between Silicon Valley and Japan - Blog論2005年バージョン(6)
My Life Between Silicon Valley and Japan - Blog論2005年バージョン(7・これで完結)
・誰の情報を求めていたのか?
日本において、国際競争力のあるソフトウェア製品を作った経験のある超優れた職業プログラマというのはそれほど多くはないと思うのだけど、そーゆー人の少なからずは大企業の奥深くにいるような気がする。富士通や日立やNECや東芝やNTTやIBMやらなんやらにいるような気がする。でもって、そーゆー人は別にオープンソースのコミュニティになんか参加したりしない。参加する強いインセンティブはない。わたしは、そーゆー人がオープンソースのコミュニティに参加しないことを責めたりはしない。絶対しない。だけど、残念だと強く思う。なぜか?
経験と実績を積んだ本当に地力のしっかりした底力のある人たち。例えば、柴田芳樹氏や荒井玲子氏であればイメージが近づくであろうか。
・どのような情報を求めていたのか?
私事になるが、僕が1980年代後半に「IT産業に特化した経営戦略の研究」ということを専門にして以来、どういう勉強法を工夫したかということを少し触れておきたい。
前にもどこかで書いたことがあるかもしれないが、「米国IT産業の最前線で活躍する超一流の個人(経営者、技術者、コンサルタント、ベンチャーキャピタリスト、ビジョナリー、起業家・・・)が、どういう言葉をリアルタイムに肉声で発するか」というところに焦点を絞り、僕は徹底的にその肉声に耳を傾け続けてきた。それをもう15年以上も飽きずにやっている。「IT産業は大きな流れとして、これからどういう方向に向かっていくのか」という研究テーマについて、他の人には他の人で色々と勉強法はあるだろうが、そういう肉声に刺激を受けて考えるしかない、とあるときに気づいたからだった。それは僕の場合、「新しい技術に関する先端研究内容や、世の中で提案されている標準等の詳細を眺めることからIT産業の行く先を直感する」という技術的才能を欠いているためである。その才能の欠如を補うために編み出した苦肉の勉強法だったのである。僕の書くものが「IT産業好きの文系的な人たちや経営者たち」に愛好される理由でもあり、「本物の技術的才能を持った人たち」からやや胡散臭いと思われる理由と、深く深く関係している。
梅田氏に欠けていた「本物の技術的才能」をもって、「IT産業の流れ」のヒントとなるような内容を持ったBlogを求めていたのだろう。
そもそもBlogで書くことの良い効用について、
(5) 自分が持つ「専門性の高い情報」、自分の専門に照らして「質が高いと判断できるコンテンツへのリンク」をリアルタイムで公開していくという習慣は、ネット全体での「知の創造」にプラスに作用するだろう。
と考えていた梅田氏である。自身のBlogだけでなく、他人のBlogについても自身が価値を感じたことと同種の内容を求めたいと思っていても不思議はない。
・今後、梅田氏の求める方向へ動くのか?
そしてある程度の結論が出るのかと期待していた話として、「けっきょく、梅田氏の望むような方向へ動いていく可能性はあるのか?」という点がある。これは、「面白おかしい日本のブログ」とシリアスとの対比としてではなく、そもそも日本にその土壌があるのか、という意味で問いたい。
私は、今後ますますギークとスーツの境があいまいになり、ギークならではの視点で未来を見通すようなBlogは出てくるとしても極端な少数派となると思っている。一方で、可能性として新しいスタイルのギークが生まれてきて、ギークの視点から未来を見るというBlogが出てくるという可能性に期待はしている。
なぜ、現状ではそういったBlogが出にくいと考えているのか、可能性として期待する新しいスタイルのギーク像はどういったものか、といった辺りを書いていきたい。
職業プログラマが存続しにくい現状
よしおか氏の文章にはこのような記載があった。
職業的プログラマとして現役を続けるためには、大げさなことを言えば、死ぬまで勉強を続けなければならない。あ、勉強といっても、別に机に向かって暗記物をやるということではないですよ、もちろん。プロのアスリートが現役でいるために引退するまで常にトレーニングを続けなければならないのと同じだ。
一つの違和感がある。
いや、私は普段からよしおか氏の話を読ませて頂いているので、よしおか氏の文章自体としては非常に刺激的で、上の世代にこのような方(そして、その背後に同じような同世代の方々)が居るというのは嬉しいのだ。ただ、自分の日常としてのIT業界というものとは、乖離を感じる。
現在のIT業界のトレンドは、職業的プログラマに否定的だ。「Blog論2005年バージョン(7・これで完結)」にはギークとスーツの話もあったが、特に30代前半以降の若手のエンジニアには、ギークへの絶望的な思いがある。エンジニアとしての自己肯定は、完膚なきまでに叩きのめされているのが、現代のエンジニアと言っていい。彼らのほとんどは、スーツに成ることを望んでいるか、望まないまでもスーツに成るしか自分のキャリアの存続の道はないと思っている。
これは、主にエンタープライズ系のシステム開発をしている人に強い思いなのだろう。例えば@ITを読んでいるような人たちと言えば想像付くであろうか。
「技術者と作業員」のようなことを言い切るのは羨望のマナザシでは見られることになるが、けして多数派の考え方ではない。(だからこそ、登氏の不満につながるのだろうが。)
「若手エンジニアのキャリア戦略」とは?
もう少し話を具体的にしよう。
IT業界の若手と呼ばれる人間にとって目下の緊急の課題は、自分のキャリアだろう。
キャリアについては、梅田氏がかつてこのように書いていたことがある。
連載をはじめてしばらくして、山岸君から「キャリア戦略」への若い読者の関心が強いと聞いた。「キャリア戦略」といえば「いかに生きるべきか」みたいな大仰な話につながるわけで、そんなものを書く気はもともと全くなかった。でも、「成功とか幸福というのは、頭の回転の速さ、知識の量、記憶力といったこととの相関関係はむしろ小さく、人との出会いという偶然を大切にする姿勢、日々過ごす環境を少しずつでも良いものに変えていくことにどれだけ意識的であるか、自分を知りその自分の生き場所を社会全体の中から見つけ出そうと考えられる柔軟性、そういう類のこととの相関関係のほうが大きい」という、こう書いてしまえばまぁ当たり前の話を、ITトレンドにときどきまぶして、若い人たちに話してみるのもいいかなと思うようになった。そして、ロジャー・マクナミーが何気なく口にしたVantage Pointという言葉にとても触発された。若者は見晴らしのいい場所に行け。確かにそれが「キャリア戦略」としていちばん大切なことだなと思った。見晴らしのいい場所には旬な人が集まるからより良い出会いが生まれるし、未知の自分を発見するチャンスも大きくなる。
梅田氏は日本の状況をご存知の上で、このような梅田氏にしかない切り口でのキャリア戦略の話を書いていたのかもしれない。Vantage Pointの話は私の中で今後を考えるときのとても比重の大きな要素となったし、とても面白く読んだのを覚えている。
ただ、この時もある種の違和感を覚えたのもたしかなのだ。
この文章で言う、「山岸君から「キャリア戦略」への若い読者の関心が強いと聞いた」ときの、「キャリア戦略」はここで語られるものよりも、より切羽詰った余裕のない物であったのだと思うのだ。
若手エンジニアの抱えるキャリア上の課題というのは、大雑把に三つの視点で語られる。
- テクニカルスキル
- ビジネススキル
- 業務スキル
テクニカルスキルはイメージしやすいだろう。従来からのエンジニアにも要求されてきたいわゆるギークとしてのタシナミである。
ビジネススキルは、IT系のエンジニアがコモディティ化してきたことにより重視されてきたものである。従来も成功するためのキーではあったが、絶対数が現在よりも少なかったため、専門職扱いとして目をつぶって見逃されることの多かったスキルである。
業務スキルは、さらに現在のトレンドと言っていいだろう。少なくとも一つの特定のドメインに特化した業務知識を持たなければならないというものだ。
これらの現在の日本の状況は、書店へ行けば一目瞭然だ。技術書のコーナーがあり、その脇には「SEのための・・・」「若手SEの学ぶ・・・」と言ったタイトルでプレゼンテーションやコミュニケーションスキル、マネジメントスキルなどに関する書籍が並ぶ。そして、さらに冊数は減るが「SEのための・・・」シリーズとして、会計や金融、製造業といった業務ドメイン別の基礎知識についての書籍が並ぶのである。
そして、エンジニアがこれらを身に付けた末に目指すのは「プロジェクトマネージャー」であり、「ITコンサルタント」なのである。(もう一つ他者が太刀打ちできないようなプログラムを書ける者として”スーパープログラマ”(名称は色々)が挙げられることが多いが、これは「君には無理だろ?」という文脈で使われることがほとんど)
つまり、日本のギーク志望者たちは、ギークの鎧を脱ぎ捨ててスーツを着るしか将来はないと考えているのだ。これは、好き嫌いとは関係ない。いや、好き嫌いだけで言えば、技術の好きなエンジニアはまだまだ多いと感じた。ただ、現実(として世間に吹聴されること)がもはやそのようなギークとしての未来を許さなくなったというのが、日本での世間一般のイメージなのである。
ここには、Grahamが説くような美しきハッカーの姿はなく、またよしおか氏の説く頑なで懸命に生きる職人としての美学も薄い。それでも、あっという間にコモディティに関しては供給過多、クリティカルな部分に関しては需要過多というアンバランスな状態になった業界で、どのように生きていくかを迫られた人たちの現実がある。
ギークならではの視点は重視されない
この現実は、程度などの差はあれ、「日本企業で働く超一流の個人」たちも感じているもののはずである。年齢的な部分でより強く危機感を持つ人も居るかもしれない。また、自分の残してきた実績や、根強く残る「終身雇用」への信頼から歯牙にもかけない人もいるかもしれない。
ただ、いずれにせよギークでいることへの自尊心を持ちたい、持たなければいけないという思いと、ギークであることの劣等感、スーツへと脱皮を図る必要があるという意識・強迫観念の両面に挟まれているのが多くのエンジニアたちの実像のような気がする。
これらは、Blogの世界では自虐的なスタイルでは発露するが、よりシリアスなスタイルでは表現されているのをあまり見ない。ただ、「働いてみたいIT企業」の調査結果などを見るにしても、上流と呼ばれる仕事、スーツな仕事への憧れというのは明らかに今の主流だ。
で、こんなところを覗いたりするようになると、その不安はますます助長されるわけである。
こうした背景から日本のエンジニアを考えると、ギークならではの視点というものがあまり重視されなくなっていると言ってよいと思うのだ。スーツ然としたギークこそ最先端であり、あるべき姿であると考えられている。豆蔵 萩本順三氏辺りは、キャリアモデルになり得るのかもしれない。同じCTOでも伊藤直也氏との違いは明白だ。(どちらが良い悪いという話ではない。念のため)
これには、従来のエンジニア像への極端な揺り戻しもあるのだとは思う。数年すれば、いくらからは基本となる技術見直しの動きも起こってくるだろうが、それでも日本のエンジニアの行く先としてスーツを着たギークへ向かうのは避け難いように感じる。
大分、話がそれている感があるが、こうしたことを考えると梅田氏の求めるような意味での「ギークならではの視点で未来を見通すようなBlog」というのはポンポンと生まれてくる環境ではないと思うのだ。
シリアスなBlogとして出やすい形としては、How to的な技術Blogと、ITとビジネス的な話との折衷Blogになりそうに感じる。
期待を込めての日本の姿
先ほど、「一方で、可能性として新しいスタイルのギークが生まれてきて、ギークの視点から未来を見るというBlogが出てくるという可能性」と書いた。
これは、伊藤直也氏のFeedBackの話を読んだりして感じている希望としての可能性だ。日本でもCheap Revolutionに乗っかってギークでありながら、生計を立てられる道を模索する人たちがどんどんと生まれてくるんじゃないか?という期待だ。
そうなれば、ひょっとしたら住み分けにはなるかもしれないが、「ギークならではの視点で未来を見通すようなBlog」も生まれてくる土壌が日本にも出来るかもしれないと思う。
梅田氏の提示した「新しい日本」とは別のものだが、これが私の感じる「新しい日本」への可能性だ。