Paul Grahamの 「ハッカーと画家 コンピュータ時代の創造者たち」を読んでから、川合史朗氏のサイトにある翻訳も読んでみた。数を重ねるにつれ、Grahamの文章の何に自分が価値を感じているのかが非常に明確になってきた。そこで、これまでのようなGrahamのストーリーに沿って引用をするスタイルをやめ、色々な文章からGrahamの考えを再構築してみたいと思う。
まず、Paul Grahamの文章の素晴らしさについて。「Paul
Graham - Pythonのパラドックス」のエントリでも書いたが、私はGrahamが好きではあるが、何もかも肯定しているわけではない。ではその中で本一冊と川合氏サイトの翻訳文書を読み続けたのはなぜなのか。
その答えは次の3つに集約されると思う。
- 誤ったことを言うのを恐れない。
- 思考を前に進めようとする。
- そして、いくつかの重要な知見を残す。
誤ったことを言うのを恐れない。
Paul Grahamの著作は素晴らしい。けれど、中にはかなり偏った物言いや不自然な構成も見受けられる。そもそも彼の文章は箇条書きが長くなっていったような構成になっており、あまり論理的な構成となっているとは言い難いものが多い。(ひょっとしたら文章もボトムアップでビルドしているのかもしれない。)
彼自身も「素晴らしきハッカー」の中で出版された「ハッカーと画家」への反応がこのような物であったと述べている。
私は数ヵ月前に新しい
本 を出版したんだが、「挑発的」だとか「論議を呼ぶ」だとかいう書評がやけに目立った。「大馬鹿だ」という評については何も言わないでおこう。
あの本を敢えて議論を呼ぶように書いたつもりはない。むしろ、効率的にしたかったんだ。読者がもう知っていることをまたくどくど説いてみんなの時間を無駄にしたくはなかった。知られてることとの差分だけ示すほうが効率的じゃないか。だが、どうやらこの方法は危ない本を産み出してしまうようだ。
ただ私はもちろん、彼が「大馬鹿だ」からこのような書き方をしているとは思っていない。彼はあえて誤っているかもしれない考えをどんどん公表しているように思える。その中にはGraham自身すら、誤っているかもしれないと感じていることも含まれている。
まぁ、どう好意的に受け取っても非常にひねくれた物の言い方をする人物であるということは避けがたい印象だ。ただその分を差っ引いても、やはり彼は意図的に挑発的な文章を書いているのではないかと思う。
思考を前に進めようとする。
では、なぜGrahamは前述の引用のようなあまり喜ばしくない反応を返されるような文章を、あえて発表するのだろうか?
私は、「その反応こそがGrahamの求めるものだからだ」と考えている。まさに彼がプログラミングでやってきたアプローチをそのまま思考を深める際にも適用しているのだ。つまり、「プロトタイプを公開せよ。良いユーザーからのフィードバックを受け、デザインをより良くせよ。」だ。
Grahamの意図は、とがった意見を発表することで賛否両論のフィードバックを得、それによって自分の見地を一段高いところへ持ち上げようというものではないだろうか。アイデアに対して、1年も2年も一人で抱えて悶々としているよりもよっぽど建設的だからだ。
そして、いくつかの重要な知見を残す。
そうして、彼はMECEな構成からは遠い名文をいくつも残してきたように思う。彼の文章を見て、矛盾を指摘するのは有意義ではない。彼が出力しようとした価値は、論理構成や過去の文章との整合性にはないからだ。彼はあくまでその文章から何か新しいものが生まれるか、それを意識して文章を書いている気がする。賢い文章ではないかもしれない。しかし、非常に創造的な作業だ。
これが、私がGrahamの文章へ価値を感じている理由だ。次回からは、2回に分けてGrahamの主張を再構築する。
第一回は、「Paul Grahamのプログラミング観について」
第二回は、「創造者・Paul Grahamについて」
「その答えは次の3つに集約されると思う。」とか言っておきながら、けっきょく「そして、いくつかの重要な知見を残す。」だけで答えは十分である辺り、「論理構成が支離滅裂なのはオマエだ!」とのご指摘は甘んじて受けます。はい。