「ある編集者の気になるノート」さんが面白く、いつも楽しみに拝見している。
その中の「会話が目的な女、会話が手段の男。」というエントリに激しく同意したのでご紹介。
男と女では、会話のもつ「役割」が違うのではないかということを、最近よく考える。
結論から言えば、男にとって会話は「手段」であり、女にとって会話は「目的」である。
女性に好意的な解釈をすると、女性は会話自体を楽しむことが得意であるのに対し、男性はそこから価値のある結論が得られるかどうかという点に執着するので、会話自体を楽しむことはヘタクソだとも言える。
だから、男は相談事について自分なりのアドバイスをするのに、女はそれを聞き流して自分の現状を延々と語るような、すれ違いが起こる。
齋藤孝氏の言い方を借りれば、女性は「具体的かつ非本質的」な話を使ってただ会話をつなぎ続けることを苦にしないが、男性は「具体的かつ非本質的」な話を続けることを苦手とし、早く「抽象的かつ本質的」な物言いへと集約しようとする傾向があるのかもしれない。
こういう話を耳にするとコールバーグとギリガンの議論を思い出します(例えばhttp://zenf.jr.chiba-u.ac.jp/shiryo3.htm、http://www.hucc.hokudai.ac.jp/~k15696/home/phileth1/hekman.pdf)。道徳やその発達は客観的なモデルでのみ説明されなければならないのかという問題ですね。
議論の詳細は先に挙げた資料に譲るとして、このような現象は性差だけでなく、習得言語などでも起きるのではないでしょうか。例えば私は英語でもモノを考えようとすればできますが、案外日本語とは違う答えが出てくることがあります。学生のころ書いた論文では、英語では日本語と違う話の進め方をしないとうまく話がつながらないということがありました。先日、旅行の写真アルバムにメモを書き添えた時は、先に書いた英語を後で日本語に訳そうとしてみるも、なかなか英語の雰囲気が伝わらずに苦労しました(別に売り物などにする予定はなかったのでいい加減なまま仕上げましたが)。道徳にかかる活動が言説により形成されるならば、その言説に用いられる言語がそれにより形成される道徳への影響を持つ可能性はあります。