オープンスタイルのニュース・Wikinewsは成功するか?

by tanabe on February 01, 2005

CNET Japanの「ニュースをオープンソース化せよ--Wikiの挑戦」 を読んで。

既存のニュースメディアの報道姿勢については、日本でも諸説出ているが、米国でも同様らしい。そして、そのカウンターとしてwikiの共同プロセスを採用したWikinewsというプロジェクトが立ち上がっている、という話。


--中立性をどうやって確保するのですか。ボランティアも偏った考え方を持っているかもしれません。思想の偏向は記事の選択にも影響します。

 その通りです。偏った観点を排除し、客観性と中立性を確保するための絶対的な方法はありません。しかし、wikiプロセスの仕組みとそのオープン性のおもしろいところは、さまざまな観点を持つ人々を広範に満足させる文章でなければ、wikiプロセスを通過することはできないということです。このため、執筆者は自然と偏見のある表現を避けるようになる--つまり、記事に含みを持たせることができなくなるのです。

この場合に難しいのは、「さまざまな観点を持つ人々を広範に満足させる文章」が「事実を正確に述べていること」とはイコールではない点だろう。つまり、大勢にとって受け入れやすい観点であれば、必ずしも最も事実に正確な記述ではなくてもwikiプロセスを通過してしまうとも言えるということだ。

「--Wikinewsは今後、どのように展開していくのでしょうか。主流メディアと共存することになるのか、それとも取って代わるものとなるのでしょうか。

 まず、私はWikinewsが主流のメディアの代替品になるとはあまり考えていません。」

「 しかし、われわれは主流のメディアに新しい形の反応を返したり、ある意味では論評を加えたりすることはできるでしょう。この点では、すでにブログが重要な役割を果たすようになっています。質の高いブログは、質の高い社説欄のようなものです。」

「ブロガーが社説、あるいは社説に対する反応だとすれば、われわれは第一面に対する反応です。Wikimediaはさまざまな情報源が伝える情報を統合(synthesize)するものとなります。」

「情報源の情報を統合」という視点で考えると、やはり気になる疑問は「中立性を保てるのか?」である。

最終的に判断を記事に織り込むということは、その判断を下すための「事実の抽出」や「因果関係の整理」、そしてそれらを受けての判断が必要となる。「事実の抽出」ではどの事実を抽出するのか、「因果関係の整理」では何と何を因果関係で結びつけるのか、といった部分でやはり恣意性が介在する余地が出てくる。

はたして、この過程をwikiのプロセスは精査できるのか?Wikipediaは事典という性格上、比較的判断を負うことは少ない。一部では歴史の解釈などで判断が必要な部分もあるが、大抵は複数の視点を提供することでその責任を回避し公平な内容をキープしているようだ。問題はこのプロセスをnewsという即時性の強く要求されるメディアで徹底できるか、だと思う。

「--しかし、あなたがたとえばSt. Petersburg Timesの記者よりも信用できるとどうしていえるのですか。wikiの参加者はどうすれば信頼を得られるのでしょうか。

 それはプロセスです。wikiのプロセスが信頼を生み出すのです。しかし、何よりも重要なのは結果でしょう。今の時点では、これがうまくいくかどうかも分かりません。半年たっても、われわれがまだ偏見に満ちた歪んだ記事しか書けず、目も当てられない状態であるなら、Wikinewsは閉鎖します。われわれは何よりも中立性を重んじているからです。」

さらにwikiのプロセスへかかる新たな負担として「事実が真実であることの検証」が発生する。newsであるという性格から、大勢が共通の情報のプラットフォームを持ち、じっくりと時間をかけて情報の完成度を高めるというプロセスを経ることができるのは一部のnewsに限られるだろう。極めて限られた人数の者が「新たな事実」として持ち込んだ情報は、どのようにその信憑性の検証をするのだろうか?少数しか知らない事実だから虚偽とするのでは、wikiのプロセスを生かせないように思う。かと言って、レアな事実を検証する術はあるだろうか?難しい問題のように思う。

むしろ大きいnewsに関しては、豊富な情報が集まり、事実の検証も行うことができ、精度の高いnewsをキープできるのかもしれない。ただ、これに関してはブログを見て回ることでも、ある程度同様の情報を得ることも可能なような気もしてくる。

wikiのプロセスはnewsへどこまで通用するのか。そして、wikiによるnewsだからこそのメリットは何か。ゆっくりと見守ってみたい。

# 追記

「ニュースをオープンソース化せよ--Wikiの挑戦」へのトラックバックの中から、「IT業界人のブログ挑戦日記」さんの「Wikipediaの次はWikinews

記事によるとWikinewsではメディアの中立性というものを非常に重要視するそう。しかし、そもそも中立性というもの自体が普遍的なものでなく、メディアとはすなわちある側面から見たものの見方であると私は思うので、この辺りは疑問符が付くところ。

これは全く同感。出来事の中から何を事実として切り取るか、にすら人の意思が働く以上、完全な中立というものはないと思う。また、あるnewsに対してイラクとアメリカ双方から見て中立な立場というものがあるかというと、ないと思う。そういう意味で、私も中立性をゴールとしているこの記事には同様の疑問を感じた。

ただ、おそらくはJimmy Walesの目指すところは、+100でも-100でもなく振れ幅が+-20〜30くらいにおさまる”比較的”まともな事実ばかりが出ているnewsなのではないかという気もしている。(まぁ、wikiのoutputとしてはそういう中庸的なものになる傾向が強いわけだし) 日本で言えば、朝○や読○よりはマシでしょ?っていうラインかと。


この記事へのトラックバック
CNETに『ニュースをオープンソース化せよ--Wikiの挑戦』という記事が掲載され興味深く読んでいました。...
オープンソース化されたニュース【Yohji‐Log /デザインにまつわる Info&Tips】at February 01, 2005 10:08
この記事へのコメント
メディアの理想論を掲げたり、純粋に理論的な考察をしてみるのはそれなりに趣があるんだろうけど、私は別のところで元記事やそれを受けた議論に違和感を感じていました。元記事が批判しているメディアって、米国のメディアだけなんですよね。欧州のメディア(例えばTVではBBC、ZDF、F2、TVEなど)については一切触れていません。もし、欧州のメディアが米国よりも客観性や中立性に優れているとしたら(可能性はある、BBCは国営放送ながら国会議員や内閣にとっては常に恐れられている存在)、その時点でwikiが天下りに既存メディアに勝る点を持つとはいえなくなってしまいます。

いまひとつは、wikinewsの「記者」なるものが、趣味としてパパラッチ同然のことを行うのではないかという心配があります。別に、Diana, Pricess of Walesを追い回した時のような派手なことをする必要はありません。むしろ、Notting Hillに出てくるSpikeのようなことを為出かす連中が「記者」として暗躍する方が厄介でしょう。ヤツらは「読者が求めている情報を追うまでだ」と大義名分を立てることができますからね。Quiz ShowでNBC社長が口にしていたセリフ「視聴者は金が見たいんだ」が思い出されます。
Posted by 谷村 正剛 at February 01, 2005 16:38
zep716さん、こんばんわ。
wikinewsが中立性を確保出来るという事には非常に疑問を感じますが、とにもかくにも既存メディア以外の選択肢が増えるという事は非常に良いことだと思います。
多くのメディアが提供する情報を取捨選択するのは、やはり個人の判断にゆだねられる事になるのではないでしょうか。
個人的にはwikipediaに代表されるwikiのプロセスは非常に好感が持てるので、wikinewsにもよりよい発展を期待したいと考えています。
それではまた。
Posted by tomute at February 01, 2005 23:09
コメントどうもありがとうございます。

>谷村 正剛さん

たしかに視点は米国メディアに向いていますよね。もし各国メディアの性格を受けて、各国のWikinewsの方向性にも違った性格が現れるとしたら、それはそれで興味深い気もします。

>tomuteさん

選択肢が増えるのは本当にありがたいですね。
Wikinewsが良質の一次フィルタとして情報を選択してくれれば、色々と助かるのですが、どうなるでしょうね。楽しみです。
Posted by zep716 at February 02, 2005 03:20
「結局は個人のメディアリテラシーに...」という主張があちこちのトラックバックなどで出てますが、これって多くの人たちが考えているよりもはるかに本質的な問題なのではないでしょうか? というのは、メディアリテラシーに対してだれが責任を追うのかを考えた場合、先の主張はwikinewsがめざす「さまざまな観点を持つ人々を広範に満足させる(文章)」と共存し得ない恐れがあるためです。Wikinewsがうまく機能すれば、それはおそらく不特定多数のメディアリテラシーを代替するものになってしまうでしょう。Wikinewsの定義により、そこに掲載され、多くの修正を受けた記事は、その不特定多数のレビューを受けています。ニュースに対するメディアリテラシーを「多数の読者が読むことによって確かめられる、情報の客観性の確認」と位置づければ(Indymediaを対局に挙げる当たり、Jimmy Walesはこの仮定を否定することはできないであろう)、wikinewsに掲載され、しかるべき修正が施された記事はすでにメディアリテラシーに基づく評価や修正が済んでいるといわざるを得ません。どうも元記事ではこの当たりのメカニズムが細かく説明されていないので、穿った見方をすれば、単にJimmy Walesは自分の読みたい記事を他人の手によりwikiに書かせたいだけなのではないかとすら読めてしまいます。

もしかしたら、Jimmyは「個人の偏見は技術によって取り除くことができ、それを施した仮想的な人間を作ることができる」という考えを披露しているのかも知れません。偏見が測定誤差のように数学的に収束させられるようなものなら、それでもかまいません。が、残念ながらスキナー(行動分析学者)によると、およそ人間の心理にかかる問題については、人間の集団を単に平均的に見る(平均的な心理を持つ人間の存在を仮定する)だけではナンセンスなのです。むしろ、個々の個人が持つ心理状態や行動をそれぞれ個別に追う、あるいは各個人間の相違点を比較により見いだす方がより本質に迫りやすくなります。私見ながら、この考えの背景には「個々の人間はそれぞれ異なる、それを素直に認めて人間の心理を追及せよ」という思想があるように思えます。Jimmyの持論「Wikinewsはこうした異なる観点を統合する場となるでしょう」とは明らかに逆方向を向いています。

スキナーの考えに従うならば、メディアリテラシーの有無のみならず、偏見ですらもその持ち主にとっては貴重な意味を持つことになります。直観的に思いつくのが、スポーツ新聞。一部の新聞社が特定のチームにベッタリなのは既知の事実です。が、それが読者にとって致命的な問題になっているのでしょうか? 単に、自分のチームをひいきにしてくれる新聞を読む、好きなチームが負けたら新聞を買わないだけでも十分なのではないでしょうか? 逆に、wikinewsの発想で、単に試合結果だけを載せるような新聞を作っても、自分がひいきにしているチームが負けたらその新聞を素直に買えるのでしょうか? その人が新聞の持つ偏見にではなく、試合結果という事実に反感を抱いてしまうことは絶対に起こり得ないのでしょうか? おそらく起こるでしょう。事実にすら読者が主観的に感想を持つことができることを鑑みると、記事は「理解」ではなく「鑑賞」するものと考えるべきでしょう。我々が思いこんでいるほどの客観性を本質的に持っていないのかも知れません。

# 蛇足ながら、自分自身でもwikinewsのように機能するような、複数のニュースを統合してブラウズするシステムを試作したことがあります。ただし、これは報道の差異を発見するためのものであり、wikinewsの目標とはやはり正反対でした。今思えば、日銀やFRBの声明とかをこのシステムに通して、微妙な言い回しから為替相場を予想するシステムが作れたかも知れません。外為をやっている人って、声明や発言などをものすごく細かいところまで読み込んで、当局が強気か弱気かを判断しにいくんだそうで。彼らにとっては、以前と同じ言い回しは材料にならないそうです。
Posted by 谷村 正剛 at February 13, 2005 21:00