ネットへの信頼は体験で培われる

by tanabe on January 02, 2005

今日は、「東京奇文」さんのエントリ「古代人、現代に触れる。」 から、メールでやりとりしていた女性と会ってきたという話をご紹介。

「今日、メールで知り合った女性と、会ってきた。」

「メールで知った人と会う、というのは、私には初体験である。」

「ただこのような出会いは、ある作家の印刷された著作を読み続けていて、あるときにその作家自身の姿を、テレビで見たり、サイン会などに行ったりして見たことと、似ていることなのかもしれない。」

「しかし、このような出会いには、大きなメリットがある。

会って、とりあえずの相手の人柄を掴んでしまえば(相手が詐欺師でない限りは)、話が早い、ということである。
お互いに牽制しあうというか、腹の探り合いをするというか、そういう手間が、大幅に省ける(社交的な人であれば、もともとそのようなことはしないのかもしれないが)。

これは私の勝手な感覚で、相手も同様に考えているかは定かではないが、もう、昔からの友達だったような感覚なのである。
メールをやりとりしているだけでは、イマイチ実感できなかったのに、会って話してみると、限りなく普通に友達なのである。
この点が、私にとって一番の驚きであった。」

こういった経験は、たしかに最初は凄く驚きであるし、衝撃も強かった記憶がある。そして、同種の体験を徐々に繰り返す内にネットがリアルの一部である実感を得られたという気がする。


私たちが現在、自分の身の周りの見えるもの、聞こえるものを、「リアルである」と信用するのは、体験があるからだ。生まれてきて、見ることを覚え、見たものは存在して触れることを実感する。聞こえることを覚え、それは皆が同じものが聞こえていることを知る。意味があることを知る。こういった経験を重ねることで、これらを「リアルである」という認識を強めてきた。

同様に信頼するに足る体験を重ねることで、ネットの世界もリアルの世界の一部として機能しているということを認識する瞬間がどこかで来ると思うのだ。私も最初は半信半疑でインターネットを通じたコミュニケーションをしていたが、今は単にコミュニケーションの一インターフェイスに過ぎないとして捉えている。

これはネットとリアルの境がなくなるというのとは少し違う。PCの画面の向こうにはネットワークの世界があり、その向こう側にはやはり端末があって、一人の生身の人間がいるのだという認識を得られるのだ。あくまで、ネットもリアルもそれぞれあるのだが、ネットにおける事柄はリアルの世界とリンクしており、内包されるものであるということを重視できるようになるのである。

何度も取り上げてしまい恐縮だが、梅田望夫氏は氏のブログの中でインターネット世代をこう特徴付けている

「キーワードは、「ネットの向こうに存在する不特定膨大多数」への「信頼(トラスト)の有無」である。ネットの向こうに存在する千万単位、億単位の見知らぬ人々(有象無象)やその知やリソースを、当たり前の存在として心から信頼できるのが「インターネット世代」 」

この「ネットの向こうに存在する不特定膨大多数への信頼」は積み重ねで容易に形成されるものだと思うのだ。キーはインターネットでの体験の量と質であり、東京奇文のteturo氏のような良い印象の体験を積み重ねることで、いずれは現在の世界と同様の信頼をネットでの信頼におけるようになると考えている。

では、その「信頼」は完全に現実世界での「信頼」と同質のものなのだろうか?この点については、少し差異があると感じている。ネットでの信頼は確かに信頼と呼ぶべきものだが、その信頼すべきものへの接し方がややリアルの世界での信頼とは違うと思うのだ。これはまた別エントリーでまとめたいと思う。

 

本論とはややずれるのだが、この話、実はそもそもの東京奇文さんの話の本筋とは違う結論を出している。東京奇文さんでの本筋は、

「メールの場合、メールだけからでは、アナログな情報が、イマイチ掴めないのである。
声の調子や、筆跡など、相手の人柄が無意識的に表れてしまう情報が、何一つないのである。
つまり、全てを、意識的人工的に作出しようと思えばできてしまう世界だけでのやりとりなので、そこから相手の血肉、人柄を想像するのは、非常に困難なのである」

「メールからだけでは得られなかった、人柄についての情報が、直接会うことで補完されたのだから、そのように錯覚するのが、むしろ当然なのかもしれない。」

ということで、あくまでネットへの信頼は築かれていない。
『 リアルに会うことで、身振りや表情のような言葉にプラスして人柄を表す要素を確認できて、ようやく相手の方の実体を伴った人間像が見えてきた。そうするとそれまでのやりとりで交わした情報があるので、そこで一気に仲が詰まって良い関係が築けた。』というものである。

ただ、きっとこれが第一歩なのだと思う。私の場合はそうだったので。この体験を繰り返すとメールでのやりとりの時点で、血肉の部分を脳内で補完して信頼できる時が来るのではないかと思うのだ。もっと正確にいうと、「メールでのやりとり」時点でその人の血肉をどの程度に見積もれば良いかを「メールでのやりとり」から試算できるようになってくるのだ。この程度の信頼を、その情報に対してかけてもSafetyだというラインが引けるようになる。

teturo様。全然違ったら、ごめんなさい(今頃言うな)


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満足せる豚。眠たげなポチ。さんの記事における考察の大きなテーマは、タイトル通り、ネットへの信頼と体験との関係についてである。 梅田望夫氏の、「「ネットの向こうに存在する不特定膨大多数」への「信頼(トラスト)の有無」」という言葉を踏まえつつ、 「この「ネットの
欲しいのはシズルそのもの。【東京奇文】at January 03, 2005 21:09